Full of SMILES

2児の母。日中仕事、朝夜家事子育て。子育ての日常、気づき、葛藤、ワーママとしての在り方など色々。時々仕事や社会ネタも書くかもしれません。

愛情タンク


今朝息子が感情を爆発させた。
正確に言うと、泣くわ叫ぶわで心の中の思いを外に爆発させた。
彼はこういう時決して相手を傷つけるようなことを言わない。
罵声も発しない。
その方法を知らないだけかもしれないけど。

 


息子の愛情タンクは空っぽい。充電が必要だ。

 


保育園に行くために玄関を出て、息子がベビーカーを抑えていた。
動かないようにロックしてはあったけど、動いてしまったのかもしれない。
そう思って元の場所に戻した。

「さあ保育園に向かおう」と思っていた矢先、息子がまだベビーカーをいじっている。
「今日はベビーカーで保育園に行かないよ」
下を向いて何か言いたそうだ。
ベビーカーに乗りたいんだな、と思った。

 

「ベビーカーに乗りたいの?今日はベビーカーで行くつもりがないから、歩いてほしいんだ」と伝えた。
まだ下を向いている。
最近気管支炎で咳をしていることもあって、息子は疲れやすくなったのか
歩いていると文句を言うようになった。
週末、近くの公園の帰り道に暑かったからなのかたくさん歩いたからなのか
文句をタラタラ言っていた光景が浮かんだ。

もう少し歩くようになってほしいんだよな、私はそう思っていた。
だから息子に伝えた。
「□□くん(息子)はもうベビーカーに乗れないくらいお兄ちゃんになったの。
ベビーカー壊れちゃうかもしれない。
□□くんは歩けるでしょう?ベビーカーはもう〇〇ちゃん(娘)が乗るやつなの」


納得がいかなそうな顔をしているが、手を取って保育園に向かった。
道中人の腰回り顔をうずめながら変な歩き方をしている。
「あっ」と我に返った。
こういう時は涙を拭いているんだ。
息子は必死に涙をこらえるべく笑おうとしている。

「ベビーカーに乗りたかったんだよね」
そう私が問いかけると、泣き出した。

『昨日は帰りに楽しく遊んだじゃないか!なのに今日怒るなんてひどい!!
怒るなんて家族じゃない。ママは家族っぽくない!!!」と息子は言った。
泣きやませるのは逆効果だし、泣きながらでいいから保育園に行こうと伝えて
手をつないで保育園に向かった。
咽ている。
せっかく気管支炎が治ってきたのになあ。そんな思いが過った。

 

「ママは家族じゃなかったら、□□くんにこんな風に言ったりしないよ」
家族っぽくないといわれるたびにそう返していた。
文字に起こすとわかるのだけど、この場合こんな風に正論で反論しても意味がない。
ただただ、息子の気持ちを受け止めるべきだった。
「そうだよね、今日はベビーカーに乗りたかったんだよね」って。


途中怒りを叫びに変えながらもなんとか保育園についた。
その間、ずっと説得していた。
「ママは歩いてほしいんだよね。」「歩けなかったら秋の遠足の時とかお留守番かもしれないじゃん」とか
「お友達はベビーカーに乗ってる?」とか余計なこと言いながら。
なだめようと、落ち着いてもらおうと、納得してほしくて必死だったのかもしれない。
違う、そうじゃない。。。今ならわかる。


保育園について階段下で上履きを履いているとき、担任の先生に会った。
「□□くん、おはようー。どうしたの?なんで泣いているの?」と尋ねた。

息子「ママが歩いてって怒って#$%&’((@*#。うわーーーーーーん」
先生「そっかー、ベビーカーに乗りたかったんだね。ママに怒られちゃったんだ。先生もよく子供たちにお母さん怒ってばっかりって言われるよ。でもね、歩いたほうが強くて速い足になると思うんだよね」

 

さすが先生。
否定しないし、親のことも落とすわけでもなく、事実を繰り返している。
(私は決して怒ったわけではなく、極めて落ち着いて話したつもりなのだけど、顔が怖かったんだろう。。)

息子はひとまず落ち着いて教室に向かった。
担任の先生ともう一度話した。
もしかしたら妹ができてから色々と我慢していたけど、それが爆発したのかもしれない。あとは毎年この時期教室が変わったことへの不安から泣いていたことがある、と。
先生はこちらの話を聞いてくれ、見守ると言ってくれた。
さすが2児の母の先生。


娘が生まれてから、必死に自分の立ち位置を取られまいと、でも妹はかわいいし。。で
彼なりに必死に我慢してきたけど、ぷつりと糸が切れたのかもしれない。
毎朝起きると必ず娘のことを確認して、そばで見ている。
だから妹のことはかわいいと思っていることに違いはなさそうだ。


それにしても、昨日楽しかったのにって何度も言ってたな。
昨日はいつものように公園によって、息子が好きなYouTubeのゲームの真似を一緒にやってアイスを買って帰ってきた。
いつもとやってること違わないんだけどな。
なんか楽しかったんだろうな。

 

ここのところ、お風呂の入って娘を寝かせた後に息子と絵を描いたり
折り紙をしたり、休みの日にプラバンしたりして以前より息子との時間を取っているつもりだった。
娘には授乳以外では一人で遊んでてもらうので、息子よりは手がかかっていないのだが
息子はYouTubeを見ているからと家事に取り掛かっていた時間がよくなかったのかな。
前のようにソファに座って一緒に見てないな。。
今日はお皿洗うのとか置いておいて、一緒に見てみようかな。
息子の好きな抹茶のアイスを買ったから、いつもは好きなタイミングでそれぞれが食べていたけど一緒に机に並んで食べよう。
こんなことができるのは、息子が小さい今のうちだけだろうから。

 

お迎えに行ったらきっと朝のことなんて気にしていないかもしれない。
それでも気持ちを受け止めることをしてなかったから、ごめんねを伝えよう。 

 

ばあちゃん

唐突に昨日から、よく晴れた風のさわやかなこの季節、ばあちゃんのことを思い出している。

 

「ばあちゃん、元気かな」

 


ばあちゃんがなくなったのは2018年5月11日。96歳まで生きた。
世間一般から言えば大往生ってやつだ。
長野の空はどうだったかわからないけど、東京はきれいに晴れていた。
いわゆる五月晴れ。
私が一年で一番好きな季節。
そんな時にばあちゃんは亡くなった。
5月の畑はきっときれいだったに違いない。

 

ばあちゃんに最後に会ったのは2017年5月。
ちょうどなくなる1年前。
厚生連で入院していて、もうだめかもしれないからと兄から連絡を受けて
急いで翌日向かった。
ばあちゃんはベッドに横たわって眠っていた。
声をかけて手を握ると、手は冷たかった。
その手は私の手より大きくて頑丈で、長生きしてる手だなって印象。
たくさん働いたんだなって。
食事がとれなくなって、脱水で入院したらしい。
私は知らなかったんだけど、ばあちゃんはここ1年はもうほとんど動けなくなって
家でベッドで寝ていたらしい。
てっきり畑に行ってるんだと思ってた。
足が悪くてあまり歩けなくなっても、3輪自転車で畑に行ってたから。


ちょっとずれてしまった。
見舞いに行って手を握って声をかけたとき、ばあちゃんは目を覚ましてくれたんだけど
結局ばあちゃんは認知症が進んでいたこともあって、私のことがわからなかった。
「△△かい?」と叔母の名前を言った。
忘れちゃったんかなと思ってちょっと悲しくなった私は、夫と息子を紹介することもなくそっと病院を後にした。

見舞いに行った後、ばあちゃんは「〇〇ちゃん(私のこと)は元気にしてるかい?」と
尋ねたらしい。決して忘れてはいなかった。わからなかったのは寝起きだったからかもしれない。


その1年後、ばあちゃんは極楽へ行った。
畑が一番きれいな時期。


子どもが生まれてから長野のばあちゃんちに帰ることはほとんどなくなっていた。
ばあちゃんが亡くなったと仕事中に兄から聞いたとき、何となく知らせがくるとしたら
そうなんだろうと思っていたので驚きはしなかった。

ばあちゃんとお別れすべく、夫と子供の3人で長野に向かった。
ばあちゃんが亡くなったことが信じられなくて、何だかちょっと旅行みたいな気分だった。
その日はあいにくの曇りで、しかも式がある午後からは雨予報で。
高速で長野に向かい、お昼をとろうと葬儀場の割と近くのステーキを主としたファミレスの駐車場で雨が降り出した。
そのファミレス、兄夫婦とよく来たところで楽しい思い出がある。
夫と子どもにも紹介したくてその店に行ったのである。


ああ、雨が降ってきた。しかも結構雨量は多い。
ばあちゃんがきっと泣いてるんだなって思った。

「わしゃ、もうだめだ」
笑いながらそういうのが80過ぎたあたりからのばあちゃんの口癖。
会うたびにそんなこと言うもんだから、常套句であり、まだまだ長生きするんだと思ってた。
ばあちゃんなら100歳まで、100歳超えても元気そうだなって思ってた。


浄土宗の習わしなのか、長野の風習なのかわからないけど
葬儀の時に故人は焼かれている。
だから告別式の時にはもう顔を見ることはできない。
ばあちゃんはもう骨になったんだなあ。そういえば葬儀の時は子どもお昼寝の時間だから、大丈夫かな。と思いながら、夫の運転で葬儀場に向かった。


葬儀場について喪服に着替えるなり、「親族でお写真をお撮りしますので」と言われた。
葬式の時に写真を撮るのは決まりなのか?
葬式出席経験がほぼない私は戸惑った。
夫に聞いてみたけど、写真なんかとったことないそうだ。
葬式で集合写真だなんて、どんな表情して撮れば良いのだろう。。。
戸惑いながら一応真顔で写真を撮った。
この時頭に浮かんだのは、釣りバカ日誌の浜ちゃん。
そんなシーンなかったっけ?


式自体は初七日もセットでやるので、比較的長かった。
割と大きな会場で、いろんな人がいた。
親戚だけじゃなくてきっと近所の人も来てたんだろうな。
ばあちゃんが長生きしたこともあって(あと、記念撮影もあってか)、全然悲しくなかった。
実感が湧いていなかったことも大きかったのかもしれない。
子どもがお経を怖がるから、抱っこしながら会場の外からばあちゃんの写真を眺めていた。
外にはばあちゃんがじいちゃんと旅行した時の写真がスライドショーで流れていた。
最近の葬儀場はいろんなことするんだなって思った。
じいちゃんは2年前に会った時より俄然年を取っていて、歩くことが難しそうだった。
すごい小さな歩幅で、杖を使って歩くのがやっとだった。
それが私の中ではとても衝撃的だった。
じいちゃんは笑顔だった。


じいちゃんはばあちゃんの葬式のために、とてもお金を使ったらしい。
「一番いい葬式にしてくれ」と頼んだらしい。
じいちゃんのすごさ、ばあちゃんへの敬意の念があふれている。
じいちゃんは昔からそうだった。
ああ、ばあちゃん、こんなにじいちゃんに想われて幸せだね。幸せだったよね、きっと。


ねえ、ばあちゃん。
きっと極楽でも畑仕事してそうだね。
畑の小屋でお茶入れて休憩とかしてるのかな。
茣蓙敷いて、お茶菓子とかおやき出して休憩してるのかな。
ピーもそっちにいるんでしょう?
おじちゃんもきっといるんだよね?

 

ばあちゃんの葬儀の翌日、打って変わってよく晴れた。
止まっていたホテルから三才駅に寄って車掌になって、小布施のハイウェイオアシスで子供を遊ばせてから帰路に向かった。東京に向かうべく車を走らせているときに、ばあちゃんとじいちゃんの畑を見ながら、ばあちゃんにありがとうを言った。


ばあちゃんってたまにしか会わなかったから(大人になってからは年1,2回くらい)、
会えなくても生きてるんじゃないかって気になってたんだけど、
さすがに2年経ったら、もう会えないんだよなって実感した。

 

そうだ、ばあちゃん。知ってると思うけど、娘が生まれたよ。ばあちゃんが亡くなってからすぐにわかったんだ。浄土宗は即身成仏だっていうから、ばあちゃんなんかな?
そっちでも楽しく、元気でね。

 

育休中のつぶやき

本日はただのつぶやき。

他に書こうと思うことはたくさんあるのだが、準備が整わず。そんな時はつぶやきを文字に起こしてみる。

 


朝起きて授乳

朝食作って食べさせる&食べる

保育園に子どもを送る

夕飯に必要なものを買って帰る

洗濯物を干す

授乳

部屋の掃除
とココまで終えると一息つきたくなって座ってお茶を飲む。
座っているうちに腰が重くなり、今日やらなければいけなかったことが終わったかのような気持ちになってしまう。

 

いや違う、そうじゃない。

 

まだ夕飯だって作ってないし、他にもやらなければと思っていたことは何も終わっていない。
寝る前には「明日はこれをやろう!」と意気込んでみるものの、椅子に座るころにはもう脱力。
これは加齢によって体力がなくなったってことなんだろうか、それとも既に疲れるだけのことをしたってことなんだろうか。

 


育休中は外に出かけるなり、何か自分drivenでイベントや用事を作らない限り保育園と自宅の往復(間に公園もはさむ)で終わる。
子育ても家事も誰も評価してくれないので、自分でタスクリストなるものを作って達成感を味わう。
そもそも、2人目は評価されたいとか労いの言葉が欲しいとか思ったことはなく、子ども中心なので完全に自由とは言い難いものの、割と自由に過ごせるのがとても楽しい。

 

とはいえ、毎日洗濯して夕飯作って子供の相手してだけで毎日が終わっていって、気づいたら育休終わってたってのもなんだかなあと思うわけで。
今回の育休中には本をたくさん読むとか、英語を勉強するとか、復職に向けた情報収集をするとかやろうと決めていた。
産後100日までは養生することが大事というので、一応産後100日を過ぎてから。。なんて思ってたら100日なんてあっという間だった。

#ちょうど100日あたりに牡蠣にあたってヒドイ目にあった。火を通していたのに。。もう牡蠣は食べないと誓う。

 

脱線。。
毎日のルーティーンだけで終わってしまうことが癖づいてしまう前に、そろそろ時間の使い方アップデートしなくては。
いや、もちろん子育てや家事はやりますとも。
そう思って、仕事のためのセミナーをストリーミングで参加してみたり、本を読んだり、英語勉強を始めた。
あ、英語はNetflixで英語を聞くのでほぼ娯楽か。


育休中に社会と切り離されたような疎外感を感じる人は多いという。
一人目の時はあまり感じた記憶がないのだけど、二人目の今は「ああ、これかな」という感じ。
毎日決まった少数の人と会話なのか挨拶なのか程度の話しかしないし、子どもの成長も一人目だと予想がつかない。
永久にこれが続くのかもしれないという気持ちになるだろうし。
あとは近年でみられる母親への異様なプレッシャーかなあ。
子どもが泣いたら嫌悪感抱く人もいるから焦るし、子どもが病気にならないように気を遣うし、たまに「お疲れ様」とか「毎日ありがとう」なんて労いの言葉があったらテンション上がるわけだけど、「そんなのわかってて産んだんでしょ」って風潮のが世間にはあるわけで。
これじゃ何も言えないじゃん!何でこんな窮屈なんだろって思うよねー。

 

5年前に比べれば、「お母さんが幸せじゃないと」とか、「お母さんが健康でないと」とか大分育児に対する考え方も変わってきたから、これからもっと子育てには人の助けが必要なんですよってことが広まるといいなと思う。もちろん子育てだけじゃなくて介護とか他にも社会的な課題もね。


今の子どもたちが成長する過程でもう少しこの窮屈な感じや
完璧を求める風潮とか、強い自己責任論とか無くしていきたいところ。
「私たちも昔そうやって我慢したんだから(あなたたちも我慢しなさい)」って若い人に同じ苦労をさせるのは極めてナンセンスだし時間の無駄。

あと「自分で決めたんだから」とか「自分で選んだんでしょ」とかも。
これじゃ挑戦する気なくなる。
そうなんだけど、そうなんだけどさ、でも失敗したときに助けがあってもいいんじゃない?「失敗してもいいからやってみようよ」ってほうが大事。
自戒もこめて。。。

 

 

ところで「育児休業」を育休と略してしまうと、まるで休んでいるかのごとく思われてしまいそうだが(実際休めていいよねーとかいうけしからん輩もいるし)、あくまで育児をしているのでお仕事ができない「休業」。
#会社によっては育休中でも働けるところもあるので、すべてとは言わない
産前休暇や産後休暇もね。。
産前はお腹が重いし移動が危ないし、産後だって骨盤グラグラだし傷は痛いし寝不足だし妊産婦からすると「休暇」ってねえって感じなのだが。。。

 

 

モヤモヤが溜まっていてスッキリしたいときには、これに限る。
妊婦さんも授乳婦さんも気にせず飲める。
私なんてアルコール弱いし、もうこの味で十分ですって思ってる。

通常版  

 

増量版 

靴を揃える

4月に年中クラスになってから、保育園では生活をする上で必要なことを色々と教えてくれるようになった。
だからこちらが何も言わなくても、自分から以下のようなことをする。

 

・食事後に食器をキッチンに持っていく
・服を脱いだら洗濯カゴに入れる
・保育園から帰ってきたら、汚れた服などを洗濯かごに入れる

 


まだ4歳なのにえらいなあと思いつつ、でも大人になってからやるより
「何で?」を考える前に自然とできるようになったほうがいいに決まってる。
(きっと保育園では何でそれらをやる必要があるのかの理由まで教えてくれているはず)
息子は非常に聞き分けのいいほうなので(これはこれで少々心配になる時がある)、
保育園で教わったことは家でも実行。
こちらは非常に助かっている。

 

 

そんな息子、毎朝保育園に出かけるときや休みの日に家を出るとき必ず
私や夫の靴を揃えて履けるように出してくれる。
頼んだことも教えたこともないのだけど、今の家に引っ越してきてからやるようになった。


今日思い切って、どうして靴を出してくれるのかを聞いてみた。
そしたら息子は


「だってパパとママと〇〇ちゃん(娘)が大好きなんだもん」


だって。
泣ける。。。
おそらく大好きなんだもんのあとには"靴を並べたら喜ぶと思って"が隠されている。
やっぱり泣ける。。。


大きくなったよね。優しい子に育っているね。
ママはうれしいよ。

 

 


新生児のころから肌を保湿することで食物アレルギー発症を抑える効果があるようで、息子も娘も保湿は欠かさないようにしている。
息子も娘も肌が弱いが、これならツルスベ肌を保てる。

 

 

   

気持ちの言語化


産後だからなのか?ストレスの逃し方がヘタクソなのか、とにかくストレスを
ため込んでしまう傾向にある自分。

いやいや、産後だからって言葉は万人に当てはまるわけでもないし、、
なんでこんなにイライラするんだろう?
そんなことを休日に時間ができたので考えてみることにする。

あれやこれやと違う方向に発散してしまう危険性もあり。


息子は割と言葉を発するのが早いほうで、1歳半くらいから意味のある単語を話し始め、
2歳になるころには親がストレスをあまり感じることなくコミュニケーションをとれるように
なっていた。
今まで一方的に話しかけていた子育てが途端に孤独ではなくなり、
その点で息子にかなり感謝した覚えがある。

あれから約3年。息子は会話やYouTubeや本などからどんどん言葉を吸収し、
コミュニケーション手段である言葉を使いこなしていた。
しかし、まだ意味を正確に理解していないけど発することもあり、
言葉を直球で受け取る親はイラッとさせられることも多くなっていた。
それでもまだ自分の気持ちを自分で表現できるのだから、親としては大変助かっている。

一方でそのコミュニケーションをとれることが楽しいのか、
息子は絶えず話しかけてくる。
クイズを出し合うのも大好き。
都合の良い話だけど、自分もノッているときはそれは楽しい。
しかしながら、静かになりたいときなんかにずっと話しかけられると
そこそこ疲れる。
大変身勝手な話で申し訳ないのだけど、ずっと話をすることで情報が入ってくるのは
疲れるときがあるのだ。

「ごめんね。ママ今は静かになりたいときなんだよね」って言ったこともある。
文章を読んでいると随分ひどい話だなあとは思う。
だって、大人にはこんなこと言わないから。


朝起きるタイミングも、自分では自由にいかない。
子供二人もいるんだから、重々承知の上じゃないかと言われそうだけど
それを言われるのも地味にストレス。
そんなことは自分でもわかっている。
叶わなくても、たまには吐き出したっていいじゃないかと思ってしまう。

「自分で分かったうえで子供産んだんでしょ」

これは本当に”なんもいえねーーー”に尽きるのだが、
そんながんじがらめにされたら窮屈で仕方がない。
愚痴ばかりこぼすのは、負の影響を周りに与えてしまうからよくないのはわかるけど
もう少し寛大な心でお願いしますとまたもや都合の良いことを並べてみてしまう。

こうやってPCを開いて文字を打つことでさえ、
子供の前でやったらPCをとられてしまうので自由にはできない。

 

そう考えてみると、

・起きたいタイミングで起きれない
・自分のタイミングでやりたいことができない
・共感してもらいにくい

 

なんて要素からイライラにつながるんじゃないかと考える。
前の記事でも言及した、育児は育自ってのは本当に的確な表現だなあと
つくづく思う。
大人になるにつれて、器が大きくならないといけないのに
私のキャパは子ども以下だな。。
そんな状況を少しでも楽しめるように(イライラと感じないように)
打開策を見つけたらいいのだけど。

・とことん子供に付き合う、または、時間を決めてそれを子供に宣言して付き合う
・家事はあとでやる
・今しかない貴重な時と認識する
・音声ではなく、文章として気持ちを外に出す
・運動してストレス発散する

って感じかなあ。
他人は変えられないけど、自分は「変えられるもの」のほうだから。

 

ああ。。。。またしてもまとまりのない記事になってしまった。。

今日は私がこんなだから夫が息子を連れて、外に出かけた。

平日仕事頑張ってるのに、午後から予定もあるのになんだか申し訳ないというか後ろめたい気分。

 

 

<今週のメモ>

就学1年前に済ませておく予防接種は以下。任意で2種類追加になった模様。

※日本小児科学会のサイトから↓↓

「学童期以降の百日咳とポリオに対する免疫を維持するために、就学前の3 種混合・不活化ポリオワクチンの追加接種についての推奨(任意接種)を加えました。」

http://www.jpeds.or.jp/uploads/files/vaccine_schedule.pdf

 

定期:MR
任意:おたふく風邪、3種混合、不活性ポリオ

3種混合+不活性ポリオって、4種混合とは違うんかいな?と思って上記PDFを読んでみると、

「・現時点で、就学前の3種混合ワクチンとポリオワクチンの接種を4種混合ワクチンで代用することは、承認されていない」
「・4種混合ワクチンは4回までの接種に限られ、5回目以降の追加接種については、3種混合ワクチンかポリオワクチンを用いる」

 とある。だから、就学前の追加接種は3種混合と不活性ポリオじゃないとダメなんだ。

 

育児その①


ノッているときには怒涛の更新。

タイトルをつけるのって、毎回考えてしまうが良案が浮かばないな。。

昨日よりも気持ちが楽になりまして、本日2本目、いきます。

 

 


「育児は育自」


そんな言葉を自分は母になってから知った。
まさにその通りだと思う。
子どもを相手にしながら、実は親としての限界を知ったり
人間の器の小ささを痛感させられる毎日。
親だって人間。万能じゃないってのは、恥ずかしい限りではあるが
親になってからわかったこと。


子供のほうがよほど寛大だし、親から子への愛は無償っていうけど、
逆だと思う。
逆というか、それも間違いないんだけど、
子から親への愛のほうが無償だし、大きい?とにかくすべてが寛大。

怒って感情をさらけ出してしまうことがあっても、
謝ったら次の瞬間「いいんだよ」って許してくれるし、
純粋に親の言うこと聞いてるし、全力で信じてる。

己の未熟さをブツブツと反省してたら、
「でもママは〇〇ができてるじゃん」とほめてくれる。
できないところは目をつむり、できていることをほめてくれるなんて
神じゃなかろうか。。
きっと親ならだれでも自分の子どもは優しいって思っているに違いない。
実際保育園の保護者会で「自分の子供の良いところを教えてください」ってお題には、
2/3の親が「自分の子はとてもやさしく育ってくれた」と話していた。


最近痛ましい事件や事故のニュースを目にしては思うのが、
自分の子供が健康で元気に大人になってほしいということ。
親よりもずっとずっと長く生きてほしいということ。
日頃、小さなことをチクチク注意してしまうのだけど、
そんなことよりも元気でいてくれることのほうが大事。
行ってきますって言ったら、ただいまって帰ってきてほしいよね。

 

育休中のよもやま話

今日は子育てではなくて、自分の気持ちの話。

 

昨日は雨が降ったりと天気が悪かったからか?家事が一向にやる気が起きなかった。
とはいえ、やらないわけにもいかない。

やったことと言えば...

・朝ごはん作る
・洗濯物干す&たたむ
・保育園送迎
・食糧買い出し
・夕飯づくり
・上の子にアレルギー用の薬飲ませる、吸引手伝う
・下の子の授乳、おむつ替え、寝かしつけ、時々遊ぶ
・子供たちお風呂に入れる
・寝かしつけ


以上は毎日やってることなんだけど、そして昨日もやったんだけど
何事にも気が重い。
やる気が起きない。。

人間だからそんなこともあるよね、と言い訳してみるも
気分転換にアイスを食べたりコーヒーを飲むも気が晴れない。

下の子はほとんど泣かないし、自分で寝てくれるし
本当に手がかからないのだけど
そして上の子はいい子だし、自分のことは大体自分でできるから手がかからないはずなのに。
どうにも私の気分が上がらない。
どうしたものか。


考えてみた。
朝起きてから夜寝るまで、自分の時間がほぼない。
正確には下の子がお昼寝している間は自分の時間なのだが
いつ起きるかわからないということを念頭にしているからか、
Netflixを見てたりするのだが気が休まらない。
それなら、子供が寝た後に起きて気分転換すればいいものだが
上の子がかなり敏感なセンサーのため、自分が起きると子供も起きる。
または自分が寝落ちして気づいたら3時とかいうパターン。
寝不足で体調崩したりしたら自分がつらいだけだし、
家族にも迷惑かけるし、、なんてこと考えたら、目覚めてもそのまま寝るかってなる。
朝早く起きるのも手なのだが、夜間授乳していると寝るのが優先になってしまう。
八方ふさがりなので、今はそういう時期なんだと思うことにしようか。


・・・という感じで今日も乗り切ろうか。


子供が二人いる生活になれてきたから、きっと他のことに打ち込みたいという
願望がでてきたのかも。
だったら復職に向けてとか、離乳食の勉強しとけって感じなんだけど。
そろそろハンドブレンダーやミキサーの選定でもしよう。